アルファと私と小倉唯

愛車アルファロメオと声優小倉唯さんのこと、そして私の日常と考えたこと

それぞれの物語


今日は、ちょっと難しいというか、観念的に思えるお話をします。

 

本当は、観念的というよりは、私たちが生きている世界のリアルに関わることで…

 

とても大事な、高度情報化社会の「生きる作法」にも関わることです。

 

退屈かもしれませんが…お付き合いいただける方はお付き合いください。

 

 

 

 

人間というのは儚く脆い存在です。

 

人間の肉体だけでなく、人間の作るもの、考えることも…

 

形あるもの、ないものを含めて、儚く脆いものです。

 

それは、日本で「無常観」という言葉で表されて来たものの見方ですが…

 

日本だけのもの、日本人の専売特許というわけでは、実はありません。

 

「永遠」の神への信仰が絶対的なものであったヨーロッパの中世。そのキリスト教的伝統の中でさえも…

 

人間が作ったもの、行うこと、考えること、世のありよう…

 

全て人という存在に関わるもの、それを取り囲む現象は、必ず壊れ、失われ、移り変わって行くのだと…

 

それが避けられぬ運命なのだ、という考え方はありました。

 

イタリア中世の大詩人ダンテ・アリギエーリの作品『神曲』の中には、その思想が色濃く表れています。

 

(とくに最も読まれることの少ない「天国篇」の中で、最もはっきりと言語化されています)

 

「神の本質」以外の、この世にあるものは、すべて変化し、移り変わり、やがて滅びて行く。

 

人も、社会も、権力も、国家も、そして神の教会でさえも、その例外ではないのです。

 

「地上での神の代理人」とされた教皇も、この書物の中では相対化されて描かれ…

 

それどころか、歴代教皇の多くが痛烈に批判され、地獄に堕ちた形で描かれています。

 

これは、後のローマ教会から危険思想とされ『神曲』がほぼ禁書とされた時期も長くありました。

 

それはそうですよね。日本でいえば、帝(みかど)や征夷大将軍、執権、等々という…

 

場合によっては神と等しいような、最高の権威、最高の権力を、相対化し、地獄に堕としているのですから。

 

(ギュスターヴ・ドレの『神曲』挿絵から)

 

それはともかく。

 

これは、決してダンテが突発的に考え出した、オリジナルのものではありませんでした。

 

それを表わす言葉は日本人と違って「無常」とは表現しなくても…

 

どんな時代の、地球上のどの場所に生きた人間でも、世のありさまを真っすぐ見つめた人たちは…

 

おそらく皆、同じことを感じてきたのでしょう。

 

 

 

 

でも、大多数の人間は、この世の全ての存在を相対化し、有限で滅びる運命にあると達観して生きてはいません。

 

日本文化の文脈のなかでは「無常観」を徹底して感得しているはずの、仏僧でも…

 

ほとんどは、口では無常を説きながらも、有限なものにしがみつき…

 

様々な物や人、地位などへの執着、未練の中に生きていたことは、古の書物を紐解けば明らかなことです。

 

もちろん現代人も同じです。

 

人は弱いものですから、自分にとって、とても大切な物や、者や、ちからや、コト…

 

場合によっては、信仰や思想、イズムを持ち、それを支えとし、それに寄りかからなければ…

 

この過酷な世界を生きて行けないのでしょう。

 

社会、世界という荒野に立って、真実わが身だけを頼りに、独りぼっちで生きて行ける人は、ほとんどいません。

 

みんな、自分の中になにがしかの「物語」を作って、それを頼りにして生きているのではないでしょうか。

 

でもそれは、実は絶対的なものではなくて、あくまでも物語であり、神話であり…幻想なのです。

 

本当は幻想であっても、人は自分の中の、物語の力に支えられ、突き動かされて生きている。

 

その力はとても大きいですから、世の権力者は、支配される者たちに、しばしば同じ物語を信じさせて…

 

それによって人を束ね、動かして来ました。

 

宗教やイズム、国家、民族、人種、そしてお金も。

 

すべてそうした、人々を束ねるために作られた「物語」です。

 

近代以降、強力な国民国家が世界に競って成立するようになると…

 

ナショナリズム愛国心)が、非常に強力な物語として登場、というか、発明されました。

 

さらに、資本主義社会では「マネー」が、神に代わる、この世界の神話、物語の主人公になりました。

 

そうした物語、神話は、本来は人を同じ方向に向かせ、同じ価値観で束ねるためのものであったはずなのですが…

 

しかし現代、少なくとも国民国家の方は、経済的なグローバリゼーションの進展や、ITの発達などなどによって…

 

存在価値の薄いもの、重要度の低い「物語」になって来ています。

 

多くの人は気付いていないし、気付いている人も、たいていはまだ、気付かないふりをしていますけれど。

 

国民国家」が実は、単なる物語であり、神話であり、民を束ねるための幻想だったということ…

 

2百年以上の間なんとか保たれていた、その化けの皮が、はがれて来ている。それが現代。

 

まさに、諸行無常、ですね。

 

まあそうは言っても、たかだか2百年かそこらしかもたなかったのですから…

 

国民国家とか、ナショナリズム愛国心というものの賞味期限は、案外短いものでした。

 

それでもまだ未練がましく、使いたがっている人は、世界中にたくさんいます。多すぎるほどたくさん。

 

ロシアとウクライナの戦争は、まさにナショナリズムと、民族主義が起こしたものですから…

 

ある意味、今が一番、それらが強くクローズアップされている時代なのかもしれません。

 

でも、何でも滅びる直前が、いちばん盛んになっているように見えるものです。

 

恐竜だって、絶滅する直前が、一番巨大化し、見た目派手になっていた時代なんです。

 

あたかも、ろうそくの火が、消える直前に強く光り輝くように。

 

恒星がその寿命を終える瞬間に、超新星爆発を起こす場合があるように。

 

いずれにしても、今いちばんクローズアップされている、ナショナリズム国民国家は…

 

どんな成り行きを経てかはまだわかりませんが…

 

(ゆっくりとではなく、急に、突然、のような気がしますが)

 

いずれ本当の終焉を迎えるでしょう。

 

これは、ほぼ確実です。

 

一方、もう一つの現代を支配する神である「マネー」を動かす資本主義もまた…

 

ある意味での終わりを経て、全く違うものに変貌して行く予感がしています。

 

今これを読んでいる人の99%が、たぶん「こいつ頭がおかしいんだな」とか…

 

「そんなことがあるわけないだろう、バカか?」と思っていると思います。

 

でも、忘れないでください。

 

諸行無常」がこの世の真理であることは、先人が遺した言葉や、歴史的事象だけでなく…

 

自然界のさまざまな現象が、それを裏付けているんです。

 

少なくとも、人間が創り出す物語には、必ず終わりがありますからね。

 

笑って「そんなことあるわけがない」と言える根拠は、とっても薄弱ですよ。

 

 

 

 

ところで、もともと人を「束ねる」ために作られたものである、いろいろな物語は…

 

一方では人を「分断する」原因にもなります。

 

集団により、個人により、よって立つ物語が、それぞれ違うからです。

 

思想、宗教、政治形態、国家、国籍、人種、社会階層、ジェンダー、ジェネレーション、学校、企業、趣味嗜好…

 

いろいろな「物語」が、人と人の間に壁を立てて、分断し、対立させています。

 

むしろ、あらゆる物語が、人を統合するよりも強く…

 

人と人との差異を際立たせ、分断し、対立させるタネとなっているのが、現代である気がします。

 

その分断と対立は、おそらくコミュニケーションの手段が発達し、情報化社会となったことで…

 

さらに加速したのでしょう。

 

なぜなら情報が少ない時代には、他の集団や個人の「物語」を知る機会が少なく…

 

したがって、そこに「許せない違い」を見出すことも少なかったからです。

 

いろいろな物事の枠組みが大転換する、つまり、終わりと始まりが加速され、混乱を極めようとしているこの時代は…

 

情報通信手段が高度に発達したことによってもたらされました。

 

そういう時代を生きる人間が、出来るだけ平和に、穏やかに暮らす「作法」は…

 

他の物語にけちをつけない。

 

他の物語をリスペクトする。

 

自分の物語を押し付けない。

 

これに尽きると思います。

 

他の集団の、あるいは他人の「物語」に、自分と違うところがあることに目くじらを立てて怒ったり…

 

それは間違っている、と介入したり…

 

これこそ真実なのだからお前も共有しろ、と押し付けたり…

 

それをやっている限りは、誰も幸せになりませんし、誰のためにもなりません。

 

 

 

どうしても不愉快だったり、自分とは相いれない物語を伝える情報に、もし触れてしまったときには…

 

ネット社会の初期によく言われた作法。

 

「そっと閉じる」

 

これが一番いいのだと、心得るべきなのではないか。

 

そう思います。

 

誤解を避けるために付け加えておきますが…

 

私は、他人の行為をすべてスルーして、不正、不正義や…

 

他人の心身を傷つけたり、虐待したり、詐取する行為に目をつぶれ、と言っているわけでは全くないです。

 

自分の「物語」を世の中で行使したり、表現する際には、限度と、時と、場所をわきまえる必要がありますし。

 

とくに権力者や、社会的強者の側がする、正しくない行為に対しては強く批判をするべきです。

 

これと、他人の「物語そのもの」に介入することとは、全く別です。

 

お分かりになるでしょうか。

 

分かっていただけると信じて、今日はこれでおしまいにします。