今日は『ネルソンさんあなたは人を殺しましたか?』という映画を見に行って来ました。

もともと28館で公開の予定が、理由がはっきりせず直前に20館で公開中止となり…
「キノフィルムズ」系の8館だけでの公開となった作品。
まあ、なぜ公開中止となったかはわかります。
ベトナム戦争に出征する前、沖縄で訓練を受けた主人公らが、そこで娼婦の代金を踏み倒し、追いすがる女をボコボコにして…
さらに基地まで乗って帰ったタクシーの代金も払わず、運転手を半殺しにして笑いながら門をくぐって行く…
「アジア人は人間ではない」と軍隊で教えられる。
そりゃそうです。これからアジア人=彼らから見ればみんな同じイエローマンを殺しに行くのだから。
今だって同じはずです。
アメリカ人から見たら日本人もベトナム人も中国人もイラク人もイラン人も全部同じに見える。
遠くから見ると解像度が著しく落ちて、みんな同じ「アジア人」に見えるんです。
我々から見るとケニア人もナイジェリア人もスーダン人もみんな同じ「アフリカ人」に見えてしまうのと同じ。
アジア人を殺すために赴く人間はアジア人を人だと思ったら殺せなくなる。
だから全部「畜生以下」の存在だと思うしかない。
そういう現実を描いた映画が、沖縄知事選とぶつかる時期に上映されることを嫌った、権力ある立場の人々がいたのでしょう。
「基地問題」が選挙の争点になると困る人たちがいたはず。
でもそれが現実。
我々を畜生以下だと思う、しかも究極の暴力を振るうための訓練を受けた軍人が…
排外主義者が嫌う、ざっくりした「イスラム教徒」などより日本人にとって有害なのは言うまでもない。
その事実を隠したい人々がいる。
そういうことなんです。
それにしても、思わず吐きそうになる残虐でグロテスクな戦場の現実。
それを経てPTSDになった主人公のネルソンさんは、帰国しても地獄の記憶から逃れられずのたうち回る。
戦争は勝っても負けても、死んでも生き残っても、経験した者に真の地獄をもたらす。
「戦争には勝者も敗者もない」なんていうものではない。
戦場に行ったものはすべからく全員が「敗者かつ死者」になるのだなと。
そのままの姿で「生きて帰る」者はひとりもいないんです。
だから「攻められたらどうする」も何もない。戦争になってしまったらもうだめなんです。
だからならないように外交に死力を尽くさないといけない。
外交というのは仲の良い国どうしで親善することではない。それは民間の交流に任せればいい。
国同士の外交というのは、コンフリクトがある国家相手に、仮想敵国になり得る国と戦争を避けるためにぎりぎりの交渉をするもの。
今、日本国は本当の外交というものを全くしていないのではないかと思う。
仮想敵国にますます喧嘩を売るばかりで。
それで戦争を避けるチャンスが少しでもあるとは、私は思わない。
そして前線に送られて戦うのは、いつでもエリートではない。学がなく金もなく苦しい立場にある人々です。
ベトナム戦でも、ネルソンさんの周りにいた戦友はアフリカ系や中南米系の人々がほとんどだったという事実。
捕まって殺される前のベトコンが「なぜ俺たちと戦う?国に帰ってお前たちと同じ黒人の自由のために戦えよ!」と叫ぶ。
しかし…
「考えるな」「従え」「殺せ」その3つしか前線の兵士には与えられない。
考えることを忘れ、理不尽に抵抗する発想を失い、経済的な不満とイライラにまみれて…
他者への加害と暴力の衝動に駆られた人々が、最良の兵士であり…
元の通りに生きた状態では決して帰れない、真の地獄に送られるのです。
そういう人たち、今の日本にいっぱいいますね。そして数が増えている。これで戦争に向かわない方がおかしいと思う。
きっとなります。戦争に。
地獄の釜は私たちの目の前にある。
そしてPTSDの治療、カウンセリングをする医師(カウンセラー?)が繰り返しネルソンさんに問う「なぜあなたは人を殺しましたか?」という質問。
最初は「それが仕事だった」「殺さなければ殺された」と繰り返していたネルソンさんが、やがて自ら気づいた衝撃の真実。
「私が殺したかったからです」
貧しさ、抑圧された生活、おとなの暴力に晒されて育った男の中には必ずある、暴力衝動。
「誰かを殺してやりたい」という自分でも意識しなかった欲求。
それが戦争の本質であり、なおかつ人間の(多分男性の)本性であるのかもしれないということ。
そこに単なる戦争映画でも反戦映画でもない…
この映画が突きつける本当の恐怖と衝撃があったと思います。